【 臨時回送電車列車運転 ( 300系J1編成廃車入場 ) 】
 





 

 

 

















 
  臨回電6981A  
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  臨回電8640A
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T.300系J0編成の誕生と「のぞみ」デビューに至るまで
 1990年03月08日、新幹線界に新たな光が差し込んできた。後の「のぞみ」こと300系量産先行試作車J0編成の落成である。当時はまだ「のぞみ」という愛称はなく、「スーパーひかり」と呼ばれていた。300系車両の開発が始まったのは1989年のことだ。まずは、270km/h運転に対応するため信号システムなどを改良。車体の方にも従来の100系とは打って変わるアルミニウム合金による大幅な軽量化の他、VVVFインバーターや電力回生ブレーキといった革新的な技術が多数採用された。
 落成後、J0編成は1990年04月から走行試験を開始。翌1991年03月には最高速度向上試験で325.7km/hを記録した。その後は走行区間を拡大して試験を行い、最終的には27万kmに及ぶ長期耐久試験を経て、約2年に及ぶ一連の試験が終了。後に登場する量産車に試験の結果がフィードバックされると、量産車の顔つきはJ0編成とはだいぶ違う形となった。そのため、先頭台車上の膨らみや運転台窓、それにライト周りの形状の違いなどJ0編成のみの特徴というのが数多く存在し、この顔つきが後々多くのファンを魅了することとなる。後にも先にも、これ程までに見た目の印象が変わった量産先行試作車はない。量産車が登場するとそれらの走行試験も頻繁に行った。そして1992年03月14日、晴れて300系「のぞみ」がデビュー。その後はJ0編成も量産化改造を受けて編成番号J1編成に改め、営業運用に入った。
U.J1編成の新たな役目
一路東京を目指して突っ走るJ1=8920A

 ↑ 2004.04.10 8920A 三河安城〜豊橋
 営業運転に就いたJ1編成は僅か8年後の2000年で早々とその職務から撤退することとなる。その理由はJ1編成を用いて各種走行試験を行うため。つまり、試験車両としての役目を再び担うことになったのだ。これによってJ1編成は700系の後継車両であるN700系の開発に大きく貢献することとなった。
 一番最初は、2001年から始まった新ATC関連の走行試験だ。従来のATCというは多段階制御方式を取っていたため、減速時は段階的に速度信号を受信するが、これでは停車する際に若干のタイムロスが生じてしまう。そこで考え出されたのが一段階制御システム。この新ATCは線路から前方ないし後方車両の位置情報を受信した後、前方列車の手前まで停まれるような減速パターンの下で、走行中の速度より一段階のブレーキで停車出来る仕組みを取っている。J1編成はこの新ATCを搭載し、実用化に向けての機能の確認を行ったという訳だ。
 続いて、J1編成に与えられた使命。それは、新車開発に向けてのデータを取得するための走行試験である。
車体傾斜装置や全周幌、それに新型パンタグラフといったものを各所に搭載し、走行試験に明け暮れる日々。各部の性能試験や速度向上試験は深夜帯だったが耐久試験時には日中にも頻繁に走行するようになったっため、多くのファンがその独特な顔つきの試験車を追い求めて沿線でJ1編成がやって来るのを待ちわびていたことだろう。東京〜新大阪2往復というのも頻繁にあった。
 しかし、流石試験車両とも言うべきだろうか。その走行日は文字通り不確定でダイヤもパターン化した時期を除けば殆ど毎回異なっていた。普通は見ることさえ困難だったこの車両。列車番号も89**A、79**A、86**A、78**Aなど臨時を現すものばかりで、いわばこのJ1編成こそが知る人ぞ知る『幸せを呼ぶ新幹線』だったと言っても過言ではないはず。
 当然この頃の私もJ1編成を追い求めていたのだが、それを捕えられる程の経験は積んでいなかったため、たとえ毎日のように走っていても殆ど見ることが出来なかった。流石に始発から終電まで線路の横にいられる訳ではありませんし(汗)。
東京と名古屋を2往復するJ1=8927A

 ↑ 2004.04.10 8927A 豊橋〜三河安城
 だが、そんな中でもほんの数回だけは偶然見ることが出来た時もあった。その時の写真が上の2枚だ。
V.N700系Z0編成落成後のJ1編成
新ATC試験に備え大一両に回送されるJ1編成=7893A  その後約1年9か月渡って走行試験を繰り返したJ1編成。走行試験の終盤となる2004年には集大成としてN700系量産先行試作車Z0編成の製作が始まり、翌2005年03月にZ0編成が落成した。こうしてJ1編成による新車開発のための走行試験も幕を閉じることとなる。
 でも、まだJ1編成の任務は残っていた。新ATCシステムの現示試験だ。実用化を目前に控えた東海道新幹線を深夜帯にJ1編成が疾走。この試験では新ATCの信号を終電後の線路に流し、性能確認を行っていた。さらに、新ATCの乗務員訓練運転にも用いられ深夜帯試験終了後の浜工ないし三島両への早朝の送り込み回送も頻繁に見られた。
 私がJ1編成と約1年半ぶりの再会を果たしたのは2005年08月06日のこと。この日は翌日の新ATC現示試験のためにJ1編成と923形T4編成が大一両へと回送されたのだが、それを偶然見ることが出来た。久々のJ1編成に感無量なひと時であったことは言うまでもなかろう。
   ← 2005.08.06 7893A 名古屋  2006.01.29 8629A 名古屋 ↓
 さらに、2005年の冬期は例年以上の降雪に見舞われたため、雪害対策列車として名古両〜大一両も頻繁に往復していた。が、ここでも私はなかなかJ1編成には巡り会えず…。所謂知識不足というやつだ。当時雪害対策列車の役目がまだよく分かっておらず、どういう時に走るのか、またそのダイヤに関しても全く知り得ていなかったのである。あれだけ頻繁に走っていたのにそのシーズンは1回も雪害対策列車に充てられるJ1編成を見ることが出来なかったのだから、思えばすごく後悔する話だ。米原で雪の中を通過するT5編成を撮影した2005年12月18日もJ1編成による雪害対策列車が走っていたのだが、それも撮り逃がしているしそれ以外にも沢山(汗)。だから、その役目を知った2006年にはその年の冬に雪害対策列車としてJ1編成が活躍することに大いなる期待を抱いていた。そして、年が明けて2006年01月29日。前日の天気からJ1編成の雪害対策列車が走るかもと思い名古屋に出向いてみると、この日は雪害対策列車ではなく新ATC総合確認試験のために走行していることが判明。本当は名古屋から別の場所に移動したかったのだが何分時間がなかったためその場に留まって捕獲することにした。移動している間に通過…なんてことがあれば泣くに泣けないので。
 こんな感じで私の場合はとにかくJ1編成とは偶然出会うことばかりだった。2006年03月19日には下の池のお立ち台にいきなり登場するし、08月28日の出場時にはのぞみの車内から浜松上2に移動している姿を偶然見かけ、東京に上って来てくれたこともあって撮影することが出来たくらいである。
新ATC総合確認試験のために名駅にやって来たJ1編成=8629A
撮影の途中にいきなりやって来たJ1編成=8610A

 ↑ 2006.03.19 8610A 掛川〜静岡
約1ケ月ぶりに本線に姿を見せたJ1編成=8620A

 ↑ 2006.08.28 8620A 東京
 2006年07月には台車関係の試験に伴って、パターン化したダイヤと走行間隔で東京〜新大阪を停電走行したため見事に予想が的中した。
三河安城にJ1編成が停車

 ↑ 2枚とも、2006.07.09 8613A 三河安城
量産J編成との違いが良く分かる1枚

 
返しは豊橋で捕獲
 最大のイベントは07月09日にあった豊橋におけるT4編成とのコラボレーションだった。同日はT4編成の本線検測上りの日でもあったため、豊橋で待避中のJ1編成をT4編成が追い抜いて行くというビックイベントがあったのだ。しかしながら、T4編成が豊橋を通過する時というのは下りホームにこだまが停まっているという状況で条件は最悪。結局、追い抜きの撮影は失敗に終わってしまった。が、それでは勿体無いということで『本当ならばこうなるはずだった』という写真を作ってしまったのが右の写真(苦笑)。加工無しでこんな風に一発で仕留めることが出来たら感無量…だったのだが、さすがに音だけで270km/hを思うように止めることは出来なかったのが実情だ。   本当はこうなるはずだったJ1編成とT4編成の並び
3枚とも、2006.07.09 8614A 豊橋 ↑→
 そして、この頃からかJ1編成の引退が噂されるようになった。全検周期から考えるといつ廃車になってもおかしくなかったのだ。廃車前にもう一度。そう思いながらも無情に時は過ぎ、遂に2007年になってしまった。
2006年10月には三島→浜工の早朝回送や東京〜新大阪2往復など様々な動きを見せてくれたJ1編成であったが、どれも都合がつかず。また2006年12月の最終出場試運転&出場もどうしても動かせない予定のために見に行くことが出来なかった。今思えば本当に悔しいがこればかりは仕方のないことだ。
W.J1編成の最後の役目
 2006年12月15日、J1編成は走行試験がてら浜工から大一両へと出場した。大一両での滞在目的…それはJ1編成に残された雪害対策列車という最後の仕事をこなすためだ。だが、J1編成が活躍出来る出番はあまりなかった。2006年の冬は例年よりも暖かく、雪が殆ど降らなかった。2006年の年末に2回走行したがこれも多忙のため出撃出来ず。年が明けて2007年01月07日に出撃した時には雪害対策列車取消の始末。しかも皮肉なことに、この日はJ1編成が大一両に戻った後雪が強くなってダイヤが乱れてしまったのだ。結局その後もJ1編成充当の雪害対策列車の出番すらなかった。
 そして、月はいよいよ03月になる。J1編成の編成名削除実施まで1か月を切った03月03日、私は漸く関西地方まで遠出する時間を作ることが出来た。真っ先に向かったのは大一両だ。ここで約半年ぶりにひっそりと佇むJ1編成と再会した。
大一両にて出番が来るのをそっと待つJ1編成
2007.03.04 大阪第一車両所 →
 すると、その約週間後には運が天へ味方したのか思いもよらぬ寒波が到来。2007年03月07日には2か月ぶりにJ1編成が動いた。雪害対策列車にJ1編成が充当されているという情報を知ったのは昼前。返しに間に合うかどうかギリギリのところだった。2006年12月末には名古屋14時発のダイヤで大一両へと戻って行ったため、それに合わせて繰り出す。そして、13時過ぎに駅に到着して急いでホームに上がった。しかし、該当する時間に『回送』表示がない。衝撃のあまり声が出なかった。実は、この日の返しは名古屋13時発のダイヤで、タッチの差で見逃してしまったのだ。
大一両にて出番が来るのをそっと待つJ1編成 これにはもう愕然。悔しさでいっぱいな自分がとても惨めに感じた。ひょっとしたら、これがJ1編成の最後の出番だったのかもしれない…そう考えるとやるせなさでいっぱいだったのも無理はないだろう。どうかもう1度だけ…その時の私は強く願っていた。
 すると、その5日後の2007年03月12日、何と奇跡が起きた。寒波が再び到来したのだ。『最後の雪害対策列車になるのでは』と噂されたJ1編成がまたもや雪害対策列車に充当されたのである。この前日の11日、私は天気予報から翌12日に雪害対策列車が施行されると確信。早朝から名古屋へ向かった。そして、その予想は見事に当たり道中に仲間の方からJ1編成を確認したという情報を頂くと、漸く願いが通じた安堵感でいっぱいになっていた。ホームに上がると下1番線に念願の『回送648』の表示を確認。そして、08時13分、新大阪方面より8648Aが名古屋に姿を見せる。緊張の中渡り線を渡って下1番線に入線してくるJ1編成。この瞬間が至福の時だった。
渡り線を渡って下1番線へ逆走入線
今までずっと撮りたいと願って止まなかった構図だ。J1編成の格好良さが最もよく出た1枚となった。入線後はとにかく写真を撮るのに無我夢中だったことを覚えている。『J1編成を見れるのはこの日が最後かもしれない』そう思いながら悔いの残らないようにとにかく撮った。本当は下りホームにも再度行きたかったのだが、いつ発車するか分からない状況だったので上りホーム新大阪寄りをウロウロしながらの撮影となった。量産のJ編成との並びも撮ったし、C編成との並びも撮った。独特の先頭形状もしっかりと記録した。停車時間は約20分弱だったが、それでももう会えないかと思ったJ1編成に再び会うことが出来て感無量であったのは間違いない。この日をどれだけ待ち望んでいたことか…。
回送列車の証 独特の運転台窓と編成表記
C編成との並び 量産のJ編成とも並んだ
尾灯から前照灯に変わった

 ↑ 7枚とも、2007.03.12 8648A 名古屋
名古屋を発車し一旦日比津車両基地へ

 
8648Aは約20分の停車時間の後、日比津車両基地へと去って行った。この日の返しは都合により見ることが出来なかったが、それでも朝あれだけJ1編成を堪能出来たので大満足な日であった。
 そしてその翌日。13日は元々米原にてZ0編成の博多への走行試験を見届ける予定だったのだが、ここでもJ1編成が走行しているという情報をキャッチ。本当は朝の名古屋入線から見たかったのだが、事情があってそれは諦め返しを米原で狙うことにした。13時17分、定時のぞみの後続で遠くからJ1編成がやって来た。緊張の一瞬。そして、決まったことに対する充実感。まさか2日続けてJ1編成に会えるとは思ってもいなかったので本当に幸せだった。欲を言うなら、雪がもっと積もっていて欲しかったということくらいだろう。尚、13日朝の名古屋での停車時間は10分少々だったようだ。
米原を通過するJ1編成=8647A

 ↑ 2007.03.13 8647A 米原
X.J1編成の最期 〜想い溢れるLast Run〜
踏切通過に間に合ったのは奇跡としか言いようがない
最後の自走風景 踏切と先頭車
踏切を渡り終え、遂に工場内へ

 ↑ 6枚とも、2007.03.28 8640A 西伊場第一踏切
車体をくねらせて03番線に入って行くJ1編成

 
 こうしてJ1編成は多くのファンに見送られて2007年03月28日12時30分に浜工03番線に入場。その後灯を落として眠りについた。翌29日09時頃には、工場内で最後の自走入れ替えを行い02番線へ。配線切断などの初期の解体作業はここで行われた。かくして、J1編成はその17年の活躍に幕を閉じたのだった。
Y.夢の跡 〜廃車回送後のJ1編成〜
 02番線に入ったJ1編成は2007年04月02日に編成分割を行い廃車解体場へと順次運ばれたようだ。1号車は非常連結器を使用して8号車と連結されていた様である。この光景もカメラに収めたかったのだが、都合がつかず出撃を断念。その後、04月09日より解体作業が始まりJ1編成は順次潰されていった。
 だが、J1編成は今でも浜松工場に腰を据えている。322-9001…J1編成の16号車だ。もうその車両に灯が灯ることは二度とない。しかしながら、当初は全車解体の予定だったJ1編成が保存されるということには大きな意味があると言えよう。最高速度325.7km/hを達成した次世代車両。営業運用を退いても試験車としての役目を十二分に果たし、N700系の開発など東海道新幹線の更なる発展に大きく貢献してきた。それだけ保存価値のある車両なのは間違いないだろう。
 そして、その功績はこれからもN700系へと語り継がれて行く。話によれば、今後はJ1編成に代わって次世代新幹線の先駆者N700系Z0編成を試験車両として使用することになっているそうだ。
浜松工場一般公開にて展示される322-9001
Z0編成もこれからはJ1編成と同様に試験車両として東海道新幹線の更なる技術向上に大きく寄与することだろう。17年間活躍してきたJ1編成の引退によって1つの時代が終わったのは紛れも無い事実。しかし、それは同時に新しい時代への幕開けでもあったと私は思っている。J1よ、ありがとう。そして、長い間お疲れ様。

*** TEC 300 J01 Forever 終 ***
2007.04.01 THE SUPER EXPRESS since 1964 管理人 YOS



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