*** CONTENTS *** 01.Preparations 02.Endeavor to Fight 03.Try My Best



*** 遠征旅行記執筆にあたり ***
 2010年12月04日未明。この日開業を迎える東北新幹線新青森駅には、その記念すべき瞬間を見届けようと全国から多くの人々が集まっていました。1972年に盛岡以北の基本計画が決定してからはや38年。東北新幹線は長い長い歳月をかけて、漸く本来の終着地である青森市へと到達しました。それ故、やっとの想いで開業を見守る方々も多かったことでしょう。
 2010年に入ると駅舎などの構造物も着々と完成し、開業ムードも一気に加速したように思います。04月13日未明にE926形が走行試験で八戸以北へと乗り入れたのを筆頭に、06月にはE4系やE5系の入線試験も実施されて注目を集めたのは記憶に新しいことですね。09月には独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構からJR東日本への設備引渡しも完了し、営業運転さながらのダイヤで開業まで乗務員訓練が続けられていました。
 一方、私も東北新幹線の全線開業の瞬間には予てから立ち会いたいと考えていました。そこで、12月03日より二泊三日の旅程で東北地方へと遠征。この目で開業前日から翌日までの様子を見届けて来たという訳です。しかも、今回の遠征ではJALの先特割引を利用して出撃したので、往復共に飛行機利用の遠征となりました。そのため、いつもとはまた少し違う雰囲気の撮影紀行に仕上がっているかと思います。どうぞお楽しみに。
*** 東北新幹線全線開業までの歩み ***
 さて、本題に入る前に東北新幹線全線開業までの歩みを少しだけ確認しておきたいと思います。東北新幹線東京〜盛岡間は1971年に基本計画が決定され、直ちに着工。1982年には大宮〜盛岡間が開業し、1985年には上野〜大宮間、1991年には東京〜上野間が開業するに至りました。一方盛岡〜新青森間は1972年に基本計画が決定。そのため、東京〜盛岡間より一年遅れて工事が開始されるはずでした。しかし、その直後の1973年に第一次石油ショックが起きると、国の財政事情の悪化と急激な物価高騰により、東北新幹線盛岡〜新青森間を始めとした整備新幹線五路線の着工は先送りされ、大きな障害が行く手を阻むことになってしまいます。それでも、政治や経済の混乱が一息ついた1978年には先送りされた路線の順次着工が決定。ところが、そこでまたも大きな問題が発生することになります。それが第二次石油ショックです。結局、二度の石油ショックによって国の財政事情や国鉄の経営再建問題は悪化。
その結果、新幹線を取り巻く環境は一変して1982年には整備新幹線計画が凍結されてしまいました。それでも沿線自治体から早期着工の声が続いたことで1987年には整備新幹線計画の凍結が解除され、計画は再び実現へ向かって動き出します。1991年には建設費の削減と整備新幹線の早期完成を目標として全国新幹線鉄道整備法が改正され、『スーパー特急方式』並びに『ミニ新幹線方式』での建設も可能となりました。ただ、当時の運輸省鉄道局が提示した内容には、国やJRに加え地元自治体も建設費を負担することや、新線開業後はJRから並行在来線の経営を分離することなども盛り込まれたため、地方自治体にとっては極めて厳しい条件での着工を突き付けられたことになります。また、この盛岡〜青森間の線路規格に関しては当時の財政状況や旅客輸送の実態から沼宮内〜八戸間はフル規格が、盛岡〜沼宮内間と八戸〜青森間はミ二新幹線方式がそれぞれ採用され、盛岡〜沼宮内間では1991年から工事が始まりました。
 しかし、岩手県や青森県の関係者達は東北新幹線の新青森延伸はフル規格であってこそ価値のあるものだと考え、困難な状況の中でも必死で国にその必要性を訴えたそうです。その結果、遂に1994年には盛岡〜沼宮内間が待望のフル規格へと変更され、八戸〜青森間についてもミニ新幹線方式の白紙撤回が決定しました。その後、一時は八戸〜青森間がスーパー特急方式になるのではないかと危ぶまれた時期もあったのですが、地方自治体の決死の主張で1996年には八戸〜新青森間でもフル規格化が決定。これにより、東北新幹線盛岡以北は晴れて全線フル規格での着工が認可され、工事が始まりました。そして、2002年12月には盛岡〜八戸間が先行開業。その後も工事は続き、2009年11月新青森駅構内でのレール締結式によって東京〜新青森間が一つのレールで繋がりました。2010年04月からは独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が主導となって各種走行試験が行われ、09月にはJR東日本への設備引き渡しが完了。
そうして、1972年の基本計画の策定から38年が経った2010年12月04日、待ちに待った東北新幹線全線開業の日を迎えるに至ったのです。

 ということで、今回は前置きがやたらと長かったですが、ここからいよいよ本編と行きましょう。では、まず最初は全線開業を翌日に控えた2010年12月03日の撮影紀行、第一部『臨戦編』からです。

3-1.JAL4311(CRJ200 - JA209J): 名古屋小牧07時20分発→秋田08時30分着
 03日は05時過ぎに自宅を出発して名古屋小牧空港へ。ただ、この日は発達した低気圧の影響で未明から天候が荒れ、名古屋市内でも局所的に豪雨になっていたり強風が吹き荒れていたりとなかなか派手な状態でした。そんな中06時半頃に空港へ到着した私は、JAL4311便への搭乗手続きを済ませて出発ロビーへ。すると、そこで搭乗予定のJAL4311便が『秋田上空の天候によっては名古屋へ引き返すこともあり得る』という条件付きの飛行になっていることを知ります。とは言え、天気ばかりは仕方ないですからそうならないよう唯々願うしかありません。
07時を過ぎると空も徐々に明るくなり、手持ちでも何とかまともな写真が撮れるまでになりました。今回搭乗したCRJ-200のような小型機はタラップを使って搭乗するため、乗る前にかなり近い位置から撮影出来るのが嬉しいですね。大型機では殆どの場合ボーディングブリッジから直接搭乗してしまうため、地上から写真を撮ることは出来ませんし。搭乗時はそれまで降っていた雨も止んでくれたので助かりました。
 07時20分、定刻に名古屋小牧空港を離陸したJA209Jはみるみるうちに高度を上昇。地上の景色があっという間に遠のいて行きます。離陸して暫くは暑い雲の中を突っ切っていましたが、そこを抜けると辺りには一面に澄み渡る青空が広がります。飛行機から見る青空は気持ちの良いものですね。一旦ベルトサインが消えてから着陸態勢に入るまでの間は移り行く外の景色を撮影しながら空の旅を楽しんでいました。ただ、上空の天候も決して穏やかではなく一定の高度に達した後も機体は何回か雲の中へと突入。その度に結構揺れていたように思います。大荒れの天気を齎す様な巨大な雲がかなり高いところまで出来ていたため、ベルトサインも殆ど付きっ放しでした。それでも、秋田上空の天気は比較的穏やかだったため、当初心配されていた事態にはならなくて良かったです。無事降り立つことが出来、一件落着といった感じでしたね。
 因みに、目的地が青森県なのにも関わらず秋田空港を選んだのは、2010年10月末で名古屋中部⇔青森便(JAL)が運休になってしまったことによるもの。そのため、中部地方から航路を利用して青森県へと向かうには名古屋小牧⇔秋田(JAL)か名古屋中部⇔函館(ANA)に乗り、残りの区間を鉄道若しくはレンタカーで移動するしか選択肢が無くなってしまったのです。それならば無理して飛行機を使わなくても…というような気もしますが、実は先特割引+レンタカーと新幹線+レンタカーの値段を比べるとあまり変わらなかったんですよね。そして、前者の方がいち早く東北地方へ入ることが出来るので、そういった経緯から今回は秋田空港を起点に動くことにしたのです。
3-2.雨降りの仙岩峠にて
 秋田空港へと定時に到着するとそこからレンタカーを借りて東へ向かい、まずは秋田県と岩手県の県境である仙岩峠へ。田沢湖線沿線には今まで出向いたことが無かったので、せっかくの機会にと思い敢えて少しばかり遠回りして青森県へと向かうことにしたのです。

 ↑ 3007M


 ↑ 3014M 3枚とも、田沢湖〜赤渕間にて


 ↑ 3012M
 仙岩峠では二時間程撮影を楽しんでいたかな。雨模様だったこともあって、生保内川もかなりの濁流でした。本当は雪化粧をした山々と絡めてみたかったのですが、12月初旬だったこともあって、まだ時期が早過ぎたようです。もう二週間遅ければ良い感じの積もり具合だったのでしょうけどね。それでも、初となる田沢湖線での撮影は実りあるものだったと思っています。
3-3.開業準備駅最後の夜
 仙岩峠での撮影を昼過ぎまで楽しんだ後は、盛岡市から東北道経由で青森市内へ。開業前日の03日も乗務員訓練が行われているということだったので、日没直前の一本に狙いを絞って三内丸山架道橋横の撮影地へと向かいます。けれども、03日の青森市内上空は仙北市上空よりも分厚い雲に覆われており、光量不足も良いところ(汗)。結局、まともなカットは撮れず終いでしたが、まぁそれでも前日の良い記録にはなったかなって思っています。
9556B →    
9556B撮影後は開業セレモニーの準備が着々と進む新青森駅に寄ってみました。南北連絡通路から翌日の動線を確認しつつ準備をしている様子を何枚か撮影。
『新青森開業準備駅』という看板も貴重な記録です。開業前夜だけあって、私と同じように駅の様子を窺いに来る方も結構居ました。また、私がここを訪れたのは18時頃でしたが、その時既に翌朝発売の記念入場券を買うために並んでいる方が二名程。これには唯々驚くばかりでしたね。
3-4.惜別、八戸行特急列車


 ↑ 98M
 新青森駅での撮影を終えると、一旦ホテルへ向かいチェックイン。その後今度は青森駅に出向き、12月03日を以って見納めとなる八戸方面への特急列車を狙います。最終日なだけあって、青森駅にも沢山の方々が485系やE751系などの勇姿を捕えるべく撮影に来ていました。


 ↑ 98M & 23M


 ↑ 23M
 特に、E751系は03日を以って定期運用から一時離脱することが決まっていたため、東北本線を走る最後の姿を狙おうと出動されていた方も多かったと聞きます。私もライトアップされた青森ベイブリッジとE751系とを絡めて撮影してみたいなぁと思っていたところだったので、23MでE751系がやって来てくれたのは幸いでした。しかもその後八戸行の485系と並ぶとあれば、もう申し分ありません。実は時刻表をよく見ずに出撃していたので、こうした並びがあることはホームの電光掲示を見るまで気付いていなかったんですよね(汗)。何とも得した気分になりました。
19時代のE751系と485系の並びを撮影し終えると、駅の雰囲気を撮りつつ改札口へ。『白鳥 八戸』という案内表示もこの日で見納めかと思うと、何だか少し寂しさも覚えました。また、改札口の案内表示には既に『東北本線』の文字はなく『青い森鉄道線』に。いつからこの組み合わせだったかは知りませんが、『青い森鉄道線』の案内で特急の案内があるのは何だか違和感がありますね。ひょっとしたらこれも開業前夜にしか見られなかった光景なのかもしれません。




 
開業前夜の活動は以上です。本当は折角なので『はまなす』なども撮りたかったのですが、12月04日は未明から新青森で改札が開くのを待つつもりだったため、体力温存のために今回は早めに切り上げました。また機会があれば狙ってみたいものです。そして、いよいよ翌12月04日は東北新幹線の全線開業当日です。04日は04時前に新青森へと入り、万全の態勢でセレモニーや一番列車の出発を見届けて来ました。そんな12月04日の活動を綴ったのが次の第二部『尽力編』ですので、引き続いてどうぞ〜。

*** 第一部 臨戦編 終 ***


※参考文献
  ・ 
 
Web東奥・連載[東北新幹線全線開業/証言 −第1部−] 『 (1)決定のヤマ場/「フル」求め つばぜり合い 』
(http://www.toonippo.co.jp/kikaku/shinkansen/rensai-syougen/1110.html)
  ・ 
 
Web東奥・連載[東北新幹線全線開業/証言 −第2部−] 『 (3)フル・ミニ論争/耐える本県側懐柔工作も 』
(http://www.toonippo.co.jp/kikaku/shinkansen/rensai-syougen/1110.html)
  ・ 
 
Web東奥・社説 2010/12/04 『 実現した県民40年の悲願/東北新幹線全線開業 』
(http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2010/sha20101204.html)
  ・ 
 
陸奥新報ニュース 2010/12/04 『 東北新幹線全線開業「ゴールではなく新たな出発」 』
(http://www.mutusinpou.co.jp/shasetsu/2010/12/14240.html)
  ・ 
 
Wikipedia 『 整備新幹線 』
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B4%E5%82%99%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A)


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